【福島県南会津郡只見町只見寺452】
慶応4年9月に宿所として使用していた東軍が撤退した後、西軍も宿所として使用した。建物は当時のままの姿を留めている。
【福島県南会津郡只見町只見上町489】
慶応4年8月長岡城落城後に長岡藩士やその家族が只見に落ち延び、会津藩野尻代官の丹羽族は只見代官所にて食料調達に奔走した。しかし充分な食料を用意することが出来なかった責任を取り、族は只見代官所にて自刃。内部には今も自刃の部屋が保存されている。
【福島県南会津郡只見町只見原573-8付近】
慶応4年5月21日、只見に入った長岡藩主牧野忠訓は只見村原の名主宅を5日間宿所とした。建物は昭和13年の火災で焼失しているが、現在も名主の分家宅に藩主が使用した布団が残されている。
【福島県南会津郡只見町只見原593付近】
同じく只見に落ち延びた長岡藩主の姫君が5日間宿所とした。
【福島県南会津郡只見町只見田中1220】
篠沢寅之助は元白虎士中二番隊。明治6年10月から半年間只見小学校に教員として赴任した際に、この地に家族で逗留した。篠沢はその後状況として巡査となり、明治10年西南戦争に出征して戦死した。
【福島県南会津郡只見町只見沖1426付近】
慶応4年5月21日、先代牧野忠恭は只見村沖の名主宅を5日間宿所とした。建物は平成29年に取り壊された。
※只見町は戊辰150年を機に町内の史跡に標柱を立てましたが、ここ牧野忠恭宿泊所跡だけ標柱がありません。
【福島県南会津郡只見町只見宮前1379-1付近】
慶応4年6月27日に只見でなくなった長岡藩士石垣龍三郎の墓。現在でも只見字田中の目黒竹市家が墓守をしているとのこと。
【福島県南会津郡只見町只見】
八丁沖の戦いで負傷した河井継之助は、慶応4年8月4日戸板に乗せられて八十里峠を越えた。パネルの赤い線が河井が越えた「河井新道」であり、実際の山と見比べても険峻なことがわかる。
【福島県南会津郡只見町只見上ノ原1644-1付近】
慶応4年8月5日から11日まで河井継之助が逗留した目明し清吉の屋敷跡。河井はここで7日間静養し、10日には松本良順が治療に訪れた。
【福島県南会津郡只見町塩沢上ノ台258】
只見から会津へ向かった河井は、慶応4年8月12日塩沢村の医師矢澤宗篤宅に逗留した。容態が悪化し16日に亡くなった河井は、この地で荼毘に付された。遺骨は会津に運ばれたが、村民達によって残った骨も拾い集められてここ医王寺に手厚く葬られた。
河井継之助の墓
【福島県南会津郡只見町塩沢上ノ台850-5】
河井終焉の地である矢澤宗篤宅は昭和36年ダム建設によって水没する地にあったが、移築され現在は河井継之助記念館にて保存されている。
河井継之助君終焉之地
【福島県南会津郡只見町只見沼田原地内】
慶応4年9月25日早朝、この地で会津藩兵と西軍が戦い、西軍を撃退した。この戦いが会津戦争最後の戦いとなった。
【福島県南会津郡只見町叶津居平456】
慶応4年9月、西軍は八十里越を越えて只見に入り、叶津口留番所に本陣を構えて東軍と戦った。
よだん
只見は交通機関がネックだったのですが、三条市の秘境八十里越体感バスツアーで効率よく周れました。メインが八十里越の高速道路の工事現場見学なので、容赦なく史跡通り過ぎたりもしますが。叶津の戦い跡はバスの車窓からだったので、叶津番所着いてから皆さんの見学中に走って見に戻りました・・・。市の協賛だからか費用もお安いです。泊まった只見の「みな川旅館」さん、ご飯とっても美味しかったです。