【徳島県徳島市眉山町大滝山5】
【徳島県徳島市西二軒屋町2-31】
※水竹の墓は本堂右脇の墓地、最上段にありました。
徳島藩士
新井水竹
明治3年9月16日卒
版籍奉還に伴い立藩を試みた稲田家を、藩士が新政府に訴えに上京。水竹は同行したが、藩士を抑えることが出来ず庚午事変 が勃発。その責任を取り芝白金徳島藩邸にて切腹、 遺髪が潮見寺に埋葬 された。日本法制度史上、最後の切腹刑。
【徳島県徳島市南佐古三番町2-4】
※何をどうしてもショベルカーは避けられませんでした…
小倉の墓は本堂裏手、墓地内売店から本堂までの区画にあります。
小倉富三郎
明治3年9月15日卒
新居水竹と共に徳島藩邸で切腹した。
【徳島県徳島市城南町1-2-22】
※柴の墓地は本堂向かって右区画。
儒学者 柴秋邨
明治4年3月18日卒
新居水竹門下。 庚午事変の際に檄文を作成し、禁固3年 の刑に処された。新居等の死を惜しみ、 痛飲したことにより体調を崩し没した。
【徳島県徳島市吉野本町5-2】
明治3年9月15日、騒動の責任を取り南 堅夫、平瀬伊右衛門、多田禎吾、大村純安が万福寺で切腹した。 境内に慰霊碑、屠腹の地の碑がある。
明治庚午九年 平瀬伊右衛門 大村純安 多田禎吾 南堅夫 屠腹遺蹟
慰霊碑
蜂須賀茂韶の孫にあたる、年子氏の和歌が刻まれている。
【徳島県徳島市住吉1-6-47】
明治3年9月3日、騒動の責任を取り瀧直太郎、三木寿三郎、小川錦司、藤岡次郎太夫の4人が蓮花寺で切腹した。
※藤岡次郎太夫の墓は山門すぐ南
明治庚午九年 小川錦司 藤岡次郎太夫 三木寿三郎 瀧直太郎 屠腹遺蹟
藤岡次郎太夫
明治3年9月3日卒
【徳島県徳島市福島2-3-44】
牛田九郎
明治3年5月14日卒
弁事。猪尻襲撃に向かう藩士を止めようと、願成寺近くにて切腹した。
【徳島県徳島市福島2-3-7】
小川錦司
猪尻襲撃の部隊に参加。騒動の責任を取り、蓮花寺にて切腹。
【徳島県徳島市南佐古四番町5】
※山の斜面に藩主の墓地が点在しています。斉裕、茂韶の墓所だけなら下から登った方が近いです。
徳島藩第13代藩主 蜂須賀斉裕
慶応4年1月6日卒
公武合体を唱え、海軍総裁・陸軍総裁を兼任した。
徳島藩第14代藩主 蜂須賀茂韶
大正7年2月10日卒
新居水竹ら徳島藩士が庚午事変の責任を取って斬首となった際に、茂韶の嘆願によって切腹となった。
【徳島県徳島市下助任町2-45】
徳島藩第13代藩主
蜂須賀斉裕
万年山墓所に埋葬されており、興源寺の墓は遺髪のみの拝み墓である。
【徳島県徳島市幸町1-47-3】
稲田家の屋敷跡。 敷地内には名高い松があり、傘を開いたような樹形から「笠松」と呼ばれていた。
【徳島県徳島市中徳島町1-5】
関寛斎は千葉県東金市生まれの蘭学医。阿波蜂須賀家に招かれ、文久2年から明治35年まで御典医として徳島に暮らした。 屋敷跡の城東高校に碑が建てられている。
※校内なので許可をいただいてから入ってください。
【徳島県徳島市中徳島町1-62】