【群馬県高崎市倉渕町三ノ倉574】
慶応4年3月、江戸から領地に戻った小栗が大量の軍用金を持ち帰ったとの流言により暴徒が集結。ここ全透院が暴徒の本陣となった。
貞婦 やすの墓
やすは慶応4年閏4月、東山道総督府巡察使より貞婦として5両を賜った。小栗処刑の直後であり、民心の安定を図ったものである。
【群馬県高崎市倉渕町川浦135-1】
慶応4年3月4日、東善寺を仮住まいとしていた小栗一行を暴徒が襲撃。東善寺を見渡せるここ薬師堂も暴徒の本陣となった。
薬師堂より東善寺方面
【群馬県高崎市倉渕町岩氷610付近】
暴徒たちは周囲の村の人々を脅し、小栗襲撃に参加させてた。塚越市右衛門は本名市五郎といい、岩氷村新屋敷の五人組組長を勤めていた。襲撃の際は本陣榛名神社へと狩りだされるが、小栗達が攻め込み暴徒側は壊滅。川を渡り対岸に逃れるも射撃され、首を取られた。
【群馬県高崎市倉渕町権田169】
小栗上野介菩提寺。江戸から権田村へ移住した際、観音山の邸宅が建つまでの仮寓とした。
小栗上野介忠順参り墓
小栗又一忠道参り墓
佐藤銀十郎
明治元年9月11日卒
喜多方市熊倉にて戦死
塚越冨五郎
慶応4年9月1日卒
耶麻郡高郷村一竿にて戦死
荒川祐蔵
慶応4年閏4月6日卒
小栗と共に水沼河原にて斬首
大井磯十郎
渡辺太三郎
近藤真彦
慶応4年閏4月7日卒
又一と共に高崎城内にて斬首
沓掛籐五郎
多田金之助
慶応4年閏4月7日
塚本まき
慶応4年閏4月8日卒
近藤真彦母。権田村脱出のさなか、地蔵峠付近で自害。案内等にもみつとあるが、小栗日記よりまきが正しいとのこと。
近藤ちか
近藤真彦長女。権田村脱出のさなか、地蔵峠付近にて自害。
小栗上野介本墓
舘林での首実検の後法輪寺境内に葬られたが、中島三左衛門等によって首は持ち出され、この地に埋葬された。
小栗上野介首級埋葬処碑
渡辺太三郎 之墓
小栗上野介胸像
栗本鋤雲胸像
【群馬県高崎市倉渕町権田3584】
小栗騒動の後、観音山に小栗邸の建設が進んだ。慶応4年4月28日に主屋の上棟が行われたが、すぐに新政府からの兵が押し寄せ完成した屋敷に住むことはなかった。 小栗の屋敷は現在前橋市に移築されている。
屋敷は碑の場所より下方の平地に建てられていた
【群馬県高崎市倉渕町権田191付近】
※塚越家の墓は墓碑があるのでわかりやすいです。佐藤銀十郎と誉田家の墓は案内板がありました。事績で判断されるのか、佐藤藤七に看板はありませんでした。探しきれませんでしたが、こちらの墓地にはまだ小栗の関係者が埋葬されているそうです。
塚越冨五郎墓
冨五郎は小栗処刑後、夫人を護衛して会津城へ向かった。会津到着後、町野隊附属誠志隊に所属し各地を転戦した。
塚越冨五郎遺髪墓
塚越家の墓域からは離れているので注意。
佐藤銀十郎墓
銀十郎も冨五郎と同じく町野隊に所属。参謀として町野源之助に深く信頼され、熊倉の戦いで惜しくも戦死した際には杉ノ下墓地に町野と伴百悦によって墓が建てられた。
誉田氏之墓
夫人の護衛に付き添った中島三左衛門と娘さいの墓。小栗の首級の奪取等も行ったが、処罰されることもなく逆にその忠義を賞し前橋藩庁から”誉田”の姓を賜った。
佐藤藤七墓
小栗の父忠高に見出され、権田村名主佐藤勘兵衛の養子となる。小栗の随行員として遣米使節にも随行したが、権田村を脱出した小栗を呼び戻し捕縛の切っ掛けとなる。小栗斬首の際も立ち合い人となった。
【群馬県高崎市倉渕町三ノ倉822付近】
官軍の屯所となった三ノ倉問屋・戸塚平右衛門宅跡。捕縛された小栗主従はこの一室で処刑までの一晩を過ごした。
【群馬県高崎市倉渕町水沼付近】
昭和6年、処刑場跡に建立された。揮毫は蜷川新博士。昭和9年9月の水害によってこの碑も流されたが、河川改修で発見され昭和12年5月、処刑場付近の現在の地に再建された。
※河原で住所が見つからないんですが、道路から見えるの見つけやすいです。
【群馬県高崎市倉渕町三ノ倉482付近】
慶応4年閏4月6日、水沼河原で処刑された小栗主従の首は草津街道沿いの土手に晒された。土手にはその後石垣が積まれ、梟首された地には観世音菩薩が建立された。
※石垣へは田んぼのあぜ道を通って向かったかと思います。水路があって近寄れなかったんですが、どこかから遠回り出来たかもしれません。
小栗家用人塚本真彦の家族は、西軍の追手から逃れ、七日市藩の縁者を頼って権田村を脱出した。5歳と3歳の幼い娘を連れて逃げることが出来ず、慶応4年閏4月7日、相間川に沈められた。
※確か熊注意の看板があったかと。熊怖い。私は熊鈴持って行きました。
相間川
塚本真彦の母まきと長女ちかは山中に迷い、慶応4年閏4月8日地蔵峠付近で自刃した。
【群馬県高崎市下斎田町324-1付近】
東海道鎮撫総督に陳情へ赴いた小栗又一主従は、高崎城下に捕らえられ慶応4年閏4月7日斬首された。遺骸は小栗の知行地である下斎田の名主がもらい受け、観音堂に埋葬した。
真山徳忠居士
金光照忠居士
藤庭偕忠居士
又一と共に処刑された塚本真彦、沓掛籐五郎、多田金之助の墓
【群馬県高崎市宮元町143】
褒矣招魂碑
下仁田戦争、戊辰戦争などで亡くなった高崎藩士の招魂碑。
【群馬県高崎市嘉多町53】
※仙蔵、徳右衛門の墓は本堂裏。田上繁蔵はすぐ近くにあります。 他に竹内嘉平治、国友辰三郎のお墓もこのお寺になっています。竹内家のお墓は複数あれど、嘉平治の名前が刻まれたお墓が見つからず。国友家は見つかりすらしませんでした。
下仁田戦死者仙蔵徳右衛門之墓
元治元年11月16日卒高崎藩軍夫。小坂村にて討死。
田上繁蔵
元治元年11月16日卒高崎藩士。熊野山
から狙撃され、捕縛。青岩河原で処刑された。
【群馬県高崎市赤坂町91−77】
※松下の墓は本堂向かって左側。墓地中央にある階段の右側にあります。 他に関根栄三郎のお墓もこのお寺になっていますが、関根家のお墓すら見つけられませんでした。
松下善八
元治元年11月16日卒高崎藩士。安導寺にて戦死。下仁田戦争殉難の高崎藩士の中で最高齢。
【群馬県高崎市赤坂町30】
※墓地は本堂左側に広がっていますが、6人とも道路寄りの手前側。参道寄りで割と6人とも近くにあるのですが、筧、本木、内藤、高橋は特に近くにあります。
筧関助
元治元年11月16日卒高崎藩士。熊野山から狙撃され、負傷したまま応援。撤退の命が出るも退かず、討死。
本木祭之助
元治元年11月16日卒高崎藩士。岩下の戦いにて戦死。下仁田戦争殉難の高崎藩士の中で最年少。
内藤儀八
元治元年11月16日卒高崎藩士。伊勢山下にて討死。
落合伝助
元治元年11月16日卒高崎藩士。熊野山にて戦死。
高月鎗三郎
元治元年11月16日卒高崎藩士。両腕を折られ捕縛、青岩河原で処刑された。
高橋栄七
元治元年11月16日卒高崎藩士。小坂村にて討死。
【群馬県高崎市若松町41】
※墓地は寺の少し手前、道の向かいにあります。案内板があるので、探しやすいです。
深井助太郎
元治元年11月16日卒高崎藩士。岩下の戦いで胸を撃ち抜かれ、切腹して果てた。
吉田友七郎
元治元年11月16日卒高崎藩士。下小坂村付近で戦死。
【群馬県高崎市若松町49】
浅井新六
元治元年11月16日卒高崎藩士。安導寺にて戦死。
【群馬県高崎市元紺屋町21】
※内山金之助は本堂脇の無縁募群、二木親子は本堂裏の二木家墓域。二木家合葬募脇に他の墓と向きが違っておかれているので見つけづらいかもしれません。
内山金之助
元治元年11月16日卒高崎藩士。高札場前にて落命。
二木助五郎二木千代之助
元治元年11月16日卒高崎藩士。父助五郎は青岩河原にて斬首。長男千代之助も戦死している。
【群馬県高崎市九蔵町81】
※岩上は本堂右手前、斎藤は本堂裏、反町は参道近く道路よりでした。 『墓石は語る』には岩上は個人墓でしたが、合葬墓に改葬されていました。墓誌に名前があります。
反町利喜蔵
岩上主鈴
元治元年11月16日卒高崎藩士。安導寺の民家にて防戦中に火を付けられ焼死。
斎藤鉄右衛門
元治元年11月16日卒高崎藩士。熊野山から狙撃され、討死。
【群馬県高崎市通町75-75】
堤金之亟
元治元年11月16日卒高崎藩士。本陣前で大砲方を指揮。本陣東側熊野山の崖から狙撃され、もはやこれまでと甥の深井藤弥に介錯させた。
【群馬県高崎市東町214付近】
下條元理
元治元年11月16日卒
高崎藩藩医。下小坂村岩下の名主里見治兵衛邸前に設けられた本陣で負傷者の手当をしていたが、鎧を着ていたため非戦闘員とわからず本陣が襲撃された際に殺害された。
【群馬県高崎市江木町214】
明治2年から4年にかけて起こった年貢減免騒動。大総代3人がこの地で処刑されたが、悲願である藩知事の交代を実現することが出来た。
猿田忠夫
元治2年2月4日卒水戸藩士。下仁田戦争に先立ち、金員を徴発しながら豊岡村に入ったところを高崎藩にて拘束。尋問後、幕命により斬首された。共に処刑された従者は、郡司兵右衛門、上野群馬之助、岡野仙三郎、浜吉、菊松の5名。
【群馬県高崎市貝沢町324-2付近】
※本には深田の墓は不動寺になっていましたが、探しても見つかりませんでした。道の向こうに共同墓地があり、念のため確認したら深田の墓がありました。
深田彌平治
元治元年11月16日卒高崎藩士。下仁田戦争戦死。
天田文次郎
西南の役にて戦死。明治10年3月15日熊本に於いて負傷、のち死去。
【群馬県高崎市若田町142-1】
高崎市の都市計画事業により、安國寺墓地が移転改葬されています。
※墓地は4人とも本堂裏の区画。右から2列目に和田、小泉、5列目に関口のお墓があったかと。
和田吉太郎
元治元年11月16日卒高崎藩士。本陣にて大砲方として戦っていたが、劣勢となり撤退する際に負傷し絶命した。
小泉小源治小泉又三郎
元治元年11月16日卒高崎藩士。熊野山にて負傷した又三郎は本陣裏で治療にあたり、父小源治も駆け付けたが本陣が襲撃された際に二人とも討死した。
関口定七
元治元年11月16日卒高崎城下田町の旅籠屋。間諜として下仁田宿を探索していたところを捕縛され、青岩河原で斬首された。
【群馬県高崎市山名町310】
※中村の墓は、本堂前の区画。鐘楼の近くにありました。
中村俊達
元治元年11月16日卒高崎藩の陣容に医師が少ないのを見て、従軍を志願。本陣脇の物置小屋で手当てを行っていたところを捕らわれた。天狗党に医師が少ない為同道を何度も求められたが断り、青岩河原で切腹した。
【群馬県高崎市寺尾町1255-1】
※大嶋の墓は墓地最上部、ご住職の卵塔群の左手側にありました。
大嶋順次郎
元治元年11月16日卒高崎藩士。高崎藩鎗術である御家流鎌宝蔵院流の達人で、当日も真っ先に敵陣に突っ込み白兵戦を展開。顔を鎗で突かれ、血潮で目が見えなくなったところを銃撃された。
【群馬県高崎市下佐野町372】
※川野の墓は墓地の右区画の後側。墓地は河野さんだらけなので探しづらいと思いますが、河埜さんというお墓の前にありました。
川野岩之助
元治元年11月16日卒本陣前で鉄砲隊にとして銃撃を行っていたが、右翼から繰り出してきた敵弾に当たり戦死。